W05 | 織部焼のルーツは古田織部 |
古田織部は織部焼のトータルコーディネーターだった |
一般的には右の写真の様な焼を「織部」といっています。 しかし織部は大変に広いバリエーションを持っています。 織部の魅力は、その奥の深さといえます。 また、古田織部のモノ作りの考え方は、オリベイズムと いわれる革新的な哲学といえます。 |
ちょっと長文になりますが古田織部の解説文を掲載しました (金野善五郎著「ひずみ候也」より抜粋) |
室町末期から安土桃山時代、天正、文禄、慶長(1573〜1615)の40〜50年間にかけて、天下一宗匠の位を獲得した、武野紹鴎、千利休、古田織部の三茶人がおり、夫々師弟関係にもなっていた。 室町時代の流行語で「バサラ」(婆娑羅─華美で派手な服装をしたり、勝手きままな振る舞いをすること)と言う言葉があったが、織田信長は正にバサラな人物であったと思われる。織部はその芸術の展開において、バサラが遺憾なく発揮されたといってよいのではなかろうか。その不均衡な「ゆがみ」「ひずみ」「へうげ」「アンバランス」といった意外なる美。そして反面「いき」「あそび」といったこれまでの美の概念を変えてしまう。それがバサラである。 博多の豪商で茶人でもあった神谷宗湛が記す「宗湛日記」に、古田織部の茶会の様子がみられる。客は安芸宰相毛利輝元、毛利秀包、宗湛の三人。「セト茶碗。ヒツミ候也。ヘウケモノ也」とあり、新趣向の茶碗が登場した有名な茶会であった。 そこにこの美学に何とも無頓着な茶好きの天下人が現れた。豊臣秀吉である。秀吉の茶好きは有名であり、彼が収集した名物の数の多さと、催した茶席の数と言い、茶の湯の大衆化、発展の功労者として空前絶後の武将と言わざるを得ない。そして千利休に全幅の信頼を置き、一位の宗匠であり、何事についても相談役でもあった。従って、冷、凍、寂、枯の美学に忠実な茶人でもあったが、一方では自由気侭に茶の湯のマニアルに従うことなく、破格を楽しむ茶人でもあった。又、天下人としての勢力を天下に示す絶好の道具にも使った。 織部は、美濃焼、瀬戸焼、唐津焼、伊賀焼、信楽焼、丹波焼、備前焼、常滑焼などと連絡をとり、各地の陶工は、織部の作風をとりいれながら、夫々その独自の作品を創製し、その個性美を強調していった事が伝世品からも確かめられる。且つ、それらの作品は、織部の茶席の中でみごとに取り合わされ、次々と新しい数奇を演出し、数奇者達にも受け入れられ、そして各陶工の関心を高め、桃山文化の演出者としての織部の地位は不動のものとなった。 又、当時京都や大坂で大流行し、町人も武士も快楽桃山を謳歌して着用した「辻ヶ花」染の衣装の文様と織部の文様には、共通点が多く指摘されている。織部正という役職は、染織関係の長官でもあったらしく、織部は京都に邸宅を持ち、京都を中心とした織物、染色関係のデザイナー達と、「織部十作」の陶画工との間で何等かの助言、資料の提供などの交流があったことは推察出来る。「四方蓋物」「扇面蓋物」「手付四方鉢」などと、「辻ヶ花」染の文様は、同根と思われるものが多い。 最後に、ペルシャ陶器と織部について触れてみよう。 人間国宝・加藤卓男氏は、幻の陶器ラスター彩の発掘と創作に20年余の歳月をつかっている。その際に織部焼と酷似した陶片の発掘に出合っている。夥しい破片の中に、びっくりするような陶片をいくつか発見した。それはまるで織部の陶片と見まちがうばかりのものであった。一部分に緑釉がかかり、白い部分には鉄色も鮮やかに幾何学文様、絵織部そっくりの梅鉢文様や、市松もある。さらに、黄瀬戸風のもの、ところどころに緑釉がかかっているものを見出した。その後加藤卓男氏は、ペルシャ陶と織部、この二つの点を線でつなぐ道を考えた。それは、桃山時代に渡来した南蛮文化のルートである。 以上、古田織部について述べて来たが、現在織部焼と一般に言われているのは、緑色の釉薬を掛けたやきものを総称している。然し、古田織部が創作した桃山陶器という観点から言うならば、志野、鼠志野、黄瀬戸、鳴海織部、黒織部、など美濃焼を始めとして、唐津、伊賀、信楽、備前、丹波などにも数多く焼成されていた。又、一方、造形、陶画についても、「誰が袖向付」に代表される変形向付を始め、方形の皿ペルシャ陶器写し、辻が花染の画柄等々、当時としては破格を極めた茶の湯、会席膳に一世を風靡したものであった。然も20世紀の現在においても、茶陶、美術陶芸は勿論の事、一般家庭食器として何等の衒いもなく使用されており、特に近年織部焼の流行には、驚くべき事実であると言わざるを得まい。 |