W03 | 日本六古窯の紹介 |
やきものの始まりは土器です。わが国では、日本列島にいた先住民族が縄文土器という独特なやきものをつくりました。それが弥生式土器、土師器、須恵器という発達段階をへて、鎌倉時代になるとそれまでより高温で焼いた本格的な陶器がつくりはじめられました。 瀬戸(愛知県瀬戸市周辺)で、初めて釉(うわぐすり)をかけた陶器が大量に焼き始められた頃と同時代に、常滑、越前、信楽、丹波、備前にも、大量に陶器を産する窯場が現われました。それまで須恵器は、大和、近畿地方で焼かれていましたが、陶器の時代になると東海方面が主生産地となり、中国地方、関東地方にまで送られるようになりました。瀬戸を含めたこの六ケ所の窯場は、現在まで連綿と焼き続けられています。これらの窯場は「日本六古窯」と呼ばれ、その後に朝鮮半島や中国大陸から渡来した製陶方法や技術によって始められた他の窯と、はっきり区別されています。つまり、日本生まれ日本育ちの、生粋の日本のやきものといえます。しかし日本の窯業は、半島や大陸の製陶方法や技術と合流し、その方法や技術をたくみに取り入れて今日の隆盛をみたことはいうまでもありません。 |
瀬戸(愛知県瀬戸市) |
現在の瀬戸市の東南部にある猿投山山麓でやきものづくりは始りました。釉(うわぐすり)をかけて焼くという本格的な技法をとっていたのは、当時の六古窯のなかでも瀬戸だけでした。他の窯場では、やきしめといって温度を高めて堅く、そして吸水性をなくするまで焼く方法をとっていました。 |
常滑(愛知県常滑市) |
常滑焼といえば衛生陶器やタイル、土管といった建材、植木鉢、または、朱泥急須などの茶器が思い浮かびますが、それは明治以降のことで、古常滑と呼ばれる初期のものは歴史が古く、六古窯の中でも最古で最大規模でした。須恵器の時代の平安末期までさかのぼり壺や甕が主産品でした。 |
越前(福井県丹生郡織田町・宮崎村) |
古常滑と同じような歴史をもつ越前焼です。壺や甕が主産品ですが、興味をひくことには、室町時代以降「お歯黒壺」といって既婚婦人が歯に用いる鉄漿の容器が盛んに作られました。ろくろを用いない奇妙な形のこの小壺は後年風流人に好まれ、一輪挿しなどに使われました。一時期は、廃窯になり火が途絶えましたが、近年復興が進み、再び火がよみがえりました。 |
信楽(滋賀県甲賀郡信楽町) |
火鉢の生産が大正時代から始まり、昭和の初期には名物の狸の置物がつくられるようになり、大もの陶器の産地として知られる信楽焼は、紫香楽宮の屋根瓦を焼くことから始まったとされます。大火で都が消失した後は、種もみ用の壺などが細々と生産されておりましたが、室町時代になり、土味を生かした素朴な風合いが茶人の目に止まり、茶陶として発展しました。 |
丹波(兵庫県多紀郡今田町立杭) |
六古窯の他の窯と同じような生い立ちで、壺、甕、すり鉢などの生活雑器をつくり続けていましたが、茶人小堀遠州の好みによって、味わいのある茶陶が焼かれるようになりました。蛇窯という穴窯で長時間焼かれる灰かむりは、野放で重厚です。 |
備前(岡山県備前市伊部) |
今や名陶、陶芸品の代名詞ともなりつつある備前焼も、六古窯のひとつとして平安末期に始められた頃は、生活雑器や壺、甕などの実用品を焼く普通の窯場でした。ところが室町以降は、高温に耐える良質の陶土を生かし、2週間にも及ぶ焼成で徹底して焼き締め、その長時間の中で起こる窯変が茶人の好みをうけ大いに盛んになりました。その後、茶陶の衰退とともに衰退してしまい、近代では、窯元は生計を立てるために土管や煉瓦まで焼きはじめましたが、戦後の陶芸ブームの中で昭和37年備前焼からも人間国宝が誕生し、今日の陶芸としての備前焼隆盛のきっかけとなったのです。 |